愉しみはデジタルの彼方に(という写真の話)
もう何年前だろうか(ググったら九年前だ)、大学院生だったころ、日曜夜のドキュメンタリー番組で金村修という写真家が紹介された。フィルム代を稼ぐためにキオスクに荷物を運ぶバイトなどをして、なにやら貧乏そうだけれど貧乏臭いというのじゃなく、たとえば、せまい押入暗室で焼いたプリントの出来が気に入らなければすぐに破り捨ててしまうその姿はさっぱりとして小気味よかったし、写真について語れば沈着いていてその自信の強そうなようすは凛凛しかった。私は俄然写真に興味をもった。二ヶ月後、東京へ出掛けたついでに相模原で中古のマニュアル機を買った。
上田義彦の「at Home」のような写真が撮りたい。あんなふうに家のなかで家族を写し、あんなふうに低コントラストのプリントがしたい。核家族の過酷な育児にかまけながら現在のところそう思って写真を撮っている。家族を写した味わい深い写真集はこのほかにも、島尾伸三の「まほちゃん」や長島有里枝の「not six」、古屋誠一の「Mémoires」やアラーキーの「洋子」、猫も家族と考えるならやはりアラーキーの「センチメンタルな旅 春の旅」などがあるけれど、とりわけ素晴らしいのはリー・フリードランダーの「family」だろう。最初のページを開けば若き日のフリードランダーはどうやら新婚で、まもなく生まれるだろう子供たちはいつしか親そっくりの顔立ちに成長し、それがあんまりそっくりなので、あれ? この写真集どういう順番で並んでるの? というふうにちょっと混乱してしまったりするのだけれど、ページを繰っていくとそのうちに孫も生まれて、最後のページにあるのはセルフポートレート、すっかり老人めいたフリードランダーが、これは“いないいないばあ”でもした後なのだろうか、布団の上の赤ん坊にそっと額を合わせ、大きな顔で包み込むようにして愛しんでいる。写真集を閉じたとき、何よりも、フリードランダーが四十数年ものあいだフィルムで家族を撮りつづけそれをずっと変わらぬ調子合でプリントしているそのことに胸を打たれる。
さて、写真雑誌「PHOTO GRAPHICA」には暗室拝見という連載記事があり、いま書店に並んでいる最新号では上田義彦のやけに小綺麗な暗室が見られるのだけど、記事のなかで上田は『僕はデジタルには触れず、最後まで銀塩でい』くのだと宣言している。だから『最後はフィルムをつくるところまで自分でやることになるんじゃないか』という覚悟らしい。二十五年くらい先にきっと出てほしい写真集“続 at Home”はやっぱり低コントラストの眠いプリントたちで埋めつくされ、そのなかに、子供たちや、子供たちの子供たちが世代混乱的に並んで(隔世遺伝というのがあるのだし?)、フィルム祝祭的なすごい大冊子になったらいい。
これは先週のこと、写真部に所属している応用数学科の三年生Iさんがやって来て「今年の『オール福岡大学写真展』に出しませんか」と言った。すこし(一分ほど)悩んだふりをして、じゃあ出します、と返事をした。出すつもりのはもちろん家族の写真。数年分のネガアルバムをめくらなきゃ。全部見直すのは大変だなあ。ああ忙しい。ああ愉しい。
2010年9月